(画像=PIXTA)
「フィリップス曲線」は中央銀行がインフレの動向を分析・予測するために欠かせない経済理論です。政府・中央銀行がインフレをコントロールするために実施する経済・金融政策は、この「フィリップス曲線」を使って決めれられています。発表から70年近く経った今も経済・金融政策を決定する上で重要な参考指標とされている「フィリップス曲線」とは、いったいどういう経済理論なのでしょうか。
「失業」と「賃金」は「二律背反」
「フィリップス曲線」はニュージーランド出身の経済学者アルバン・ウィリアム・フィリップスが1958年に発表した経済理論です。第2次世界大戦後、英国のロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで経済学の研究をしていたフィリップスは、英国では失業率が高い年は賃金水準が安定しているか、下落する傾向を示す一方で、失業率が低いと賃金水準が急上昇する傾向にあることに注目しました。そして、1861年から1957年までの約100年分のデータをもとに、「賃金率」と「失業率」というマクロ経済学において、極めて重要な課題となる両者が「トレードオフ(二律背反)の関係にある」ということを示す曲線を導き出しました。
フィリップス曲線は「右下がり」
フィリップス曲線を簡単に説明してみます。フィリップス曲線は「賃金率」を縦軸、「失業率」を横軸に取ると、「反時計回りに右下がりの曲線を描く」というものです。
フィリップスは「景気上昇局面では賃金上昇が速く、下降局面では賃金調整が遅れるため、減速する」「失業率の低下局面では賃金上昇が加速して、失業率の増加局面では賃金率はより緩やかに低下する」と考えました。このためフィリップス曲線は、上記のグラフのように、失業率がゼロに近づくにつれて、賃金上昇率が急勾配で高くなります。
その後、フィリップスの研究は海を渡り、米国の数理経済学者でノーベル経済学賞を受賞したポール・サミュエルソンとロバート・ソローが、1960年に発表した「反インフレーション政策の分析」という論文の中で、米国でも賃金率と失業率の間にフィリップス曲線と同様の負の関係が存在することを証明しました。
フィリップス曲線は、賃金率と関係の深いインフレ率に置き換えても、同じような右肩下がりの曲線が描かれたことから、現在は縦軸がインフレ率に置き換えられて、マクロ経済や金融政策における重要な理論となっています。
シフトするフィリップス曲線
上述した通り、1960年代までのフィリップス曲線は、失業率が低下すると、インフレ率がどの程度上昇するかを示してきました。景気拡大局面ではコスト上昇が賃金と物価を押し上げます。言い換えると、政府は経済・金融政策で需要拡大を喚起し、そのときに発生するインフレ上昇が容認できるレベルであれば、失業率を下げることができるということになります。
しかし、実際には安定的に曲線が描けませんでした。そこでシカゴ経済学派の重鎮でノーベル経済学賞受賞者のミルトン・フリードマンは、インフレが長期化するうちに、人々はインフレを見越して行動するため、それがさらにインフレを加速させると考えて、「インフレ期待」でフィリップス曲線がシフトするという新しいモデルを提唱しました。フリードマンのモデルは、景気後退局面でも人々のインフレ期待が高ければ、インフレ率が高止まりすることがあり、その逆に景気拡大局面でも、インフレ期待が低ければ、インフレ率が低くなることがあるというものでした。
たとえば、上記のグラフのように、政府が需要喚起する経済・金融対策で2%のインフレを起こすと、短期的にはA点からC点まで名目賃金は2%上昇し、失業率も低下します。しかし、いずれ人々はインフレを予想し、インフレ率と実質賃金の上昇率が均衡してしまうと、インフレ率上昇による失業率低下の効果はなくなり、長期的に失業率はA点と変わらないB点にシフトして、インフレだけが高止まりすることになります。フリードマンはこれを「自然失業率」と呼びました。
フリードマンは「インフレで失業率を抑制することはできず、高インフレだけが残るため、経済・金融政策としては好ましくない」として、「政府は『財政出動の縮小』『国営企業の民営化』や『規制緩和』で、その役割をできるだけ小さくし、経済は『市場メカニズム』に委ねるべきだ」という主張を展開。そして、「インフレや人々の賃金の変動は、『貨幣供給量』でコントロールができる」とする「マネタリズム」を説きます。
時代は1970年代に入り、2度のオイルショックで、インフレと不景気が同時に発生する深刻なスタグフレーションに世界各国は見舞われていました。そのためフィリップス曲線に基づく経済・金融政策に対する見直しが行われていたこともあり、フリードマンは「小さな政府」「自由競争」「市場メカニズム」を重視する「新自由主義」の論客として広く知られるようになります。
フラット化するフィリップス曲線
もしフリードマンの主張が正しければ、フィリップス曲線は長期的にみると自然失業率で垂直になるはずです。しかし、実際にはそのようなことは起こらず、やはりノーベル経済学賞を受賞した米国のジョージ・アカロフやロバート・シラーによって、インフレ率で自然失業率が変動することが示され、フリードマンが主張したフィリップス曲線の垂直化は起こらないことが証明されました。むしろ近年は、日本をはじめとする欧米先進国のフィリップス曲線は「フラット化」していることが指摘されています。
事実、厚生労働省が2014年発表した労働白書の「労働経済の分析」では、過去と比較すると近年のフィリップス曲線の傾きが緩やかになっていることが紹介されています。ご覧の通り、1970年代〜1980年代のフィリップス曲線よりも、1990年代〜2010年代のフィリップス曲線はフラット化しています。
出所:労働白書(平成26年度版)のグラフとデータをもとに作成
アカロフらの研究では低インフレやデフレでも自然失業率が高まるとされています。名目賃金が硬直化して実質賃金の調整が難しくなったり、長期失業者の増加で失業が固定化したりするとインフレ率上昇の要因になるからです。また、高インフレになると自然失業率が高まることも分かっています。
結局、時代とともに起きた社会や経済構造の変化、規制や税制の変化など、さまざまな要因がインフレ率や失業率には影響しており、自然失業率を変動させたり、フィリップス曲線を変形させたりします。これが70年近く経った現在においてもフィリップス曲線の研究が続けられ、政府・中銀の経済・金融政策の重要指標としても使われ続けている理由ではないでしょうか。
インフレ率と失業率は必ずチェック
さて、最後に申し上げたいのは、フィリップス曲線を自分で描くことはなくても、フィリップス曲線のデータとなっているインフレ率や失業率の推移は、個人投資家にとっても重要な指標であるということです。その動向が株式や為替市場の動向に大きな影響を及ぼすからです。
今、米国は景気後退リスクに直面しています。本来、FRB(米連邦準備理事会)は利下げに踏み切りたい場面ですが、今、利下げを実行するとインフレ率だけが上昇して、スタグフレーションという最悪の事態に陥る危険性があるからです。トランプ大統領の関税発動は人々が消費を控え始めた中で、商品価格だけが上昇するという事態を引き起こしかねません。FRBのこうしたジレンマは株式市場や為替市場の乱高下にも現れており、世界経済にも大きな影響を与えています。
毎月発表される米国雇用統計の失業率やCPI(消費者物価指数)の推移に注目して、米国がどのような経済・金融政策を取るのか、それに対して日本はどのように対応するのか、その結果、株式市場や為替市場はどのように動くのか、テクニカル分析だけでなく、マクロ経済のファンダメンタルズの状況を頭に入れておくことも、安全な資産運用に役立つと私は考えています。
(本文ここまで)

株式会社タートルズ代表/テクニカルアナリスト
2004年、東京工業大学から一橋大学へ編入学。専門は数理経済学。卒業後、FX会社のシステムトレードプロジェクトのリーダーになり、プラットフォーム開発および自動売買プログラムの開発に従事。その後、金融系ベンチャーの立ち上げに参画。より多くの人に金融のことを知ってほしいと思い金融教育コンテンツの制作に集中するために会社を創業。現在は、ハイリスク・ハイリターンの投資手法ではなく、初心者でも長く続けられるリスクを抑えた投資手法を研究中。