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「為替は野球だ」野村雅道氏 特別インタビュー <前編>

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東京銀行や外銀でチーフディーラーとして活躍した経歴を持ち、外為どっとコムの動画、レポートなどでもお馴染みの野村雅道さんに、就職から個人投資家までの経歴を聞きました。

▼目次
1.東京大学野球部 から東京銀行へ
2.やったら意外と面白かった、銀行での仕事
3.トレーニーとしてのニューヨーク時代
4.為替デビュー 修羅場の外為市場で見えた面白さ
5.バブル経済と状況の変化

東京大学野球部 から東京銀行へ


PickUp編集部:
では、よろしくお願いいたします。早速ですが、マーケットに関わることになった、東京銀行に就職したところからお伺いします。
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野村:
正直に言って、銀行を選ぶつもりはなかった。大学時代に東大の野球部でキャプテンだったんだけど、9月から始まる秋のシーズンの前に、早く就職だけ決めたかったわけです。最初は商社に入ろうと思っていたら、そのとき商社の不祥事が続いてどうしようか迷っていて。ちなみに、野球部の就職って、先輩と飯食いに行ったらもうそれで決まりなんだよ。

PickUp編集部:
…豪快ですね。
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野村:
就職した1979年は、景気がいいわけでもなかった。だって、私が就職した翌年は、大卒の女子の就職、東京銀行は全部ゼロだったし。金融業界で言うと、中南米の金融危機があってさ。

話を戻すと、野球部の先輩が来て、「どうなんだ」とか言われて。「商社に行きたいと思ってます」って答えたんだよ。その先輩って、東京銀行の人事部の人なんだけど、そしたら「うちに来れば、商社と同じだよ」って言われてさ。その時、東京銀行なんて全然知らなかったけど、海外に行けるって言われたんで、就職するのを決めちゃったんだよね。

PickUp編集部:
海外に行ける、というが一番の決め手だったんですね。
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野村:
そう。当時はあんまり海外っていくこと自体が無くて。海外渡航じゃないけど、返還してすぐの沖縄への遠征は楽しみだった。

PickUp編集部:
沖縄返還は1972年ですね。
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野村:
たしか車は右側通行だったよ。沖縄の三つの大学と野球の試合やって、全勝して帰ってきました。とにかく、私には海外志向があったわけです。アマゾンとか、アフリカで活躍したかったわけよ。そしたらやっぱり商社なんだよ。

PickUp編集部:
北米、欧州ではなくて。
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野村:
発展途上国とかに行きたかったんだよなあ。それで、さっきの話に戻ると、結構いい加減に銀行への就職を決めたんだけど、秋に野球部の活動が終わって、そこから銀行のことを勉強し始めたら、これあんまり面白くないなと思ってさ、そのときは結構悩んだんだよ。

PickUp編集部:
え、もう行くって言っちゃってますよね…。
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野村:
だからちゃんと行ったよ、入社式。一人だけだよ、坊主で行ったの。あ、私は東大野球部のキャプテンだったから、六大学野球の連盟がくれた背広の生地を仕立て行きました。買うより、仕立ての方が高かったんだけど。

PickUp編集部:
ちなみに、同世代で野球選手になった方って…
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野村:
その時は江川とか居たから、六大学も観客が結構入ってたね。私が江川と対戦したのって知ってる?

PickUp編集部:
え、あの江川卓ですよね。
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野村:
3打数、3安打。

PickUp編集部:
すごい!
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野村:
6打席回ってきた試合があって3打数3安打で、3フォアボール。チームとしては15回でサヨナラ負けだったんだけどね。

やったら意外と面白かった、銀行での仕事


PickUp編集部:
それでは新入社員のときのお話をお願いします。
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野村:
銀行の勉強したらつまらなそうだと分かっていたから、すごい暗い感じで入ったわけです。札勘定とかさ、地味なことをやらされるのかと思って。あと預金の事務とか、よくわからないから嫌だなと思っていた。そしたら、実際はそうでもなかったんだよ。やっぱり東京銀行っていうのは、普通の銀行じゃなかったんだ

PickUp編集部:
東京銀行の前身が横浜正金銀行というのは知っています。
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野村:
じゃあ簡単に紹介するよ。日本が開国して貿易を始めたんだけども最初は全て外国の銀行に商売を取られてたから、それじゃいけないっていうことで福沢諭吉や大隈重信とかが本気になって作ったのが横浜正金銀行なんだよ。1879年かな。その後に日本銀行ができたわけよ。

要するに、民間なんだけど政府系みたいな銀行で外貨の専門銀行として出来たわけ。つまり、貿易ばっかりやってた訳。外貨の国内シェアが6~7割。あと海外の支店が多かった。中国に至ってはもう20ぐらいあった。

PickUp編集部:
あっ、そんなに。
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野村:
第二次世界大戦が終わったら解体されたの。なんで解体されたかは調べてください。一度解体されたんだけども昭和29年にもう一回名前変えてね、東京銀行で外貨の専門銀行ということで設立されて海外業務中心にやってたわけです。

融資の対象は国内の会社でもいいんだけども、それはその会社が貿易に関係ある会社、つまり商社だったらOKという感じだった。そういう貿易関係の融資するっていうことで、為替の仕事が主なわけ。

PickUp編集部:
なるほど、特殊な役割があったんですね。
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野村:
だけど国際化になって、どこの銀行でも東京銀行と同じようなことをやらせようということになって。で、弱くなっちゃって三菱に合併させられちゃった。

PickUp編集部:
そうなんですね。
野村さんが銀行に入った時はどういう状況でしたか?
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野村:
外為の専門銀行だったし政府が優遇してたから、海外のシェアはすごく高かった。ただ、私が入った時ぐらいから経営が傾き始めた。

何でかっていうと、「中南米危機」って言って南米の国に不良債権がいっぱい出てきた。今だとアルゼンチンとかがそうなんだけど、銀行などから借りたお金を国が返せなくなって、それで銀行の収益上がらなくなってしまった。

PickUp編集部:
では、銀行としてはあまり景気は良くなかったんですね。
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野村:
そうなんだよ。

PickUp編集部:
そんな中、野村さんの新人時代はどんなお仕事でしたか?
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野村:
最初から輸出入の仕事をやらしてもらったね。貿易の仕事ばっかりなの。そしたら、これがわりと面白い。世界中の貿易の流れとかが分かるんだ。アフリカとか中国とかフランスとかスペインとか、何を輸出しているか貿易内容を書類チェックするから分かるわけ。

それを2年ぐらいやってたのかな。それで私は発展途上国に行きたいから、次はそっち系に行かせるのかなとか思ったら、ニューヨークに行けって言われて

PickUp編集部:
いきなりニューヨークに?
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野村:
銀行内で、誰を派遣するかって面接があってさ、「君、中国語できるのか」とか「中東は大丈夫」とか聞かれたから、大体そっちかなーと思ったら、ニューヨークになってね。

PickUp編集部:
とりあえず、海外に行くというのは叶いましたね。

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トレーニーとしてのニューヨーク時代

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野村:
ニューヨーク行って、すぐに為替をやった訳じゃないのよ。最初やったのは、金利が多めの中南米向け融資。中南米に10パーセントとか20パーセントでお金貸してたからさ。 ただ、借りる方が上手(うわて)なんだよ。いくら金利高くてもさ、彼らどうせ最初から返すつもりないから関係ないわけ。それでしばらくしたら全部破綻した。

その「中南米危機」って言うのが、1982年から1983年頃。私がニューヨーク行った途端にクラッシュした感じ。破綻する前は、国にお金貸してたから中南米の国の大臣とかに出張で会いに行けてたみたいなんだけど、もう全部破綻したわけですよ。米銀もダメになったし東京銀行もダメになって。だからニューヨーク赴任早々、債権回収の仕事ばっかりだった。

PickUp編集部:
具体的にどういうことをしたのですか?
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野村:
インターネットも電子メールもないからさ、テレックス(※)でお金返せっていうんだ。

※テレックス:文字情報を電話回線で交換する通信機器。


PickUp編集部:
それはどれぐらいの期間ですか?
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野村:
研修だから一年やりました。その後は、FRBのFFレートとかを見ながら資金繰りとかやっていました。外貨の資金繰りの仕事だね。それを1年ぐらいやってさ、それでニューヨークに来て2年以上過ぎたから、「野村、今度は大阪支店だぞ」とか言われた。もう帰るのかなと思ったんだけど、でも、やっぱね、アメリカって、いい国なんだよね。 アメリカに行くと、みんな帰りたくなくなるんだよ。だってみんな海外に行きたいから東京銀行に入ったわけで。

PickUp編集部:
なるほど。でも組織の命令じゃ、しょうがないですね。
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そう。で、大阪支店に帰るって言うところに、若林栄四さんから呼ばれて

PickUp編集部:
その時、若林さんは存じ上げていたんですか?
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野村:
それは知ってるよ。だって一緒にニューヨークにいるんだもん。で、若林さんに呼ばれて「お前為替くるか」とか言われたんだよ

PickUp編集部:
これまた、驚きの展開ですね。
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野村:
若林さんの上司っていうのは結構東大の野球部の人が多かった訳よ。私も東大野球部だったから、一応気にしてくれていたみたい

PickUp編集部:
おお、思わぬ繋がり。
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野村:
で「お前どうなんだと」「やりたいのか」とか言われてね。「いや、私もうすぐ大阪帰るんです」って答えたけど「そんなことは聞いてない、やりたいのかやりたくないのか聞いてるんだ」とか言われてさ。「いや、やりたいです」って言ったら、大阪支店の転勤をキャンセルしてくれたんだよ。

PickUp編集部:
アメリカに残れましたね。
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野村:
若林さんはね、どうやら大学時代に相撲部だったやつにやらせたかったみたいなんだ。研究した結果、相撲部ぐらいのやつが為替には合うんだ、東銀にはそういう人材がいないから、お前だとか。

PickUp編集部:
すごい理屈ですね。
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野村:
ともかく、アメリカ滞在を延長してくれたんだ。

為替デビュー 修羅場の外為市場で見えた面白さ

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野村:
だけどさ、ひどいんだよ、為替資金部っていうところは。これまで居た金利とか融資の部署は、結構紳士的な仕事場なんだよ。で、為替資金部というのは運動部と同じなんだよ。すごい悲鳴がいっぱい聞こえるんだよ、「うわー」とかさ。

時々、なんか泣きそうなやつが来てさ、「野村さん、若林さんにもうお前は家に帰れって言われましたけどどうしましょうとか」とか言ってきてさ。「じゃあこの辺にちょっと座ってりゃいいんじゃない」のとか言って。

PickUp編集部:
バリバリの体育会系ですね…。
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野村:
もうめちゃくちゃだよ、今ならありえない事もいっぱい。そんなすごい仕事場だったんだけど、為替の世界に入ったばかりの私は、毎日連戦連勝だったんだよ。

PickUp編集部:
さっそく才能が開花したんですね。
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野村:
そう。為替は面白いっていうのがわかったわけ。これはスポーツだと。

PickUp編集部:
「為替はスポーツ」。名言ですね。
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野村:
そう、野球なんだよ。一方で、融資とか金利は静かな仕事だった。あと、融資というのは、最初から米銀との「差」があることも為替との違いだった。

例えばブラジルにお金貸すにしても、何十億ドルとかの巨額に資金になるわけよ。10行とか20行とかが関わるんだけど、それをまとめるのは絶対米銀なんだよね。エージェントというかマネージャーというかシンジケートローンとね。これって、手数料もらえるから物凄い旨味があるわけ。そういうの、日本の銀行は絶対できない。金利もそうなんだよ、金利はFFレートが2パーセントとか言うけど日本の銀行って2パーセントで調達できないんだよ。ジャパンプレミアムっていうのが上乗せされるから。

でも、為替にはそういう「差」が無い。平等にチャンスがあるんだ。努力で補える。ニュースのチェックやチャートの確認は事前に準備をして、ディールを行う。ディールのあとは、試合後に反省するみたいに、振り返って次の作戦を立てる。野球のように勉強すれば勝てることに気づいたんだ。

あと、為替が面白いのはやっぱり誰が儲かるかわからないところもいいよね。歳とってても、やられてるばっかりの人はいるわけ。一応年功序列で先輩に敬意を表するんだけどさ。これもスポーツと同じだよね。

PickUp編集部:
早々に為替の面白さに気づいた、と。当時はインターネットはないですから、電話でやり取りするんですよね。相手と駆け引きがあったってことですか。
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野村:
駆け引きというか、読み合いだよね、喧嘩だよね、スポーツだよね。向こうが50本打ってきたらそれをどう捌いていくかとか。

イメージとしては、電話で殴り合うわけ。仁義なきあれなのよ。喧嘩する人はすごかったみたい。向こうがドルを売ってくるでしょう。そしたら、若林さんと同じくらいの歳の人なんだけど、その銀行呼び返せって言ってさ、その銀行から今度買うんだよ。向こうは売ってるからこっちは買うって、どんどん買いを増やして、ずっと我慢してるの。向こうはお客のためにやってるだけで、ポジション持ってないかも知れないのにさ、喧嘩みたいなことしてるわけですよ。

だから売りと買いが書いてあったディーリングシートとか、買いだったらずっと何ページでも買いばっかりなんだよ。

PickUp編集部:
大丈夫かなって心配するところまで。
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野村:
そう。そういう事をドル/円が230 円ぐらいの時にやって、260円までドルが上がった。スーパーダラーとか言われてたね。レーガン大統領、ヴォルカーFRB議長時代。アメリカはすごいインフレだったからインフレを止めるためにはいくらでも金利上げるとか言って、だからFF金利が15~16パーセントまで上がったわけ。だからドルもどんどん上がって260円になった。

PickUp編集部:
260円!そんな時代が…
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野村:
そんな中、85年に私はニューヨークを去り東京に帰ってきました。東京本店の為替資金部に配属になったんだ。そこから1年ぐらいが面白かったんだよね。ポンドが、1.00を割りそうだったの。ドル/マルクが3.4、ユーロ/ドルだと0.5とか0.6なんだよ。そこまでドルがどんどん上がってた。ドルを買うと為替で儲かって、金利が十数パーセントつくんだよ

PickUp編集部:
今じゃ考えられない。ドルロングの人はいいですね。
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野村:
そう、たまらなく儲かったんだよ。それが1月から2月の辺から何か不穏な動きが起きてたらしいんだよ。こんなドルが強くてアメリカは貿易赤字ばっかりだということで、アメリカ主導でドルを下げようかというのをG5で話し合って。それで、9月22日にいきなり声明を出して、貿易不均衡を解消する、ドルを下げる、介入するって言ったんだ。

その後ドル/円は230円くらいから市場介入があって売りが始まるんだけど、バーンとドル/円が上がったの。なんでかと言うと、前に260円まで行ってた相場だから、大きく下がったら輸入業者は嬉しくて買いまくるわけよ。

PickUp編集部:
それまでずっと高値だったから。
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野村:
そう。今だったらドル/円100円割れたみたいな感じでさ、輸入勢がドルを買って。その上がった分を、また市場介入が入って、下がっていたなあ。結局、プラザ合意の声明が出たとき240円まで落ちていたドル/円が、1985年の12月にさらに200円くらいまで落ちた、と。 そこから3年(1985年から87年)って1年に40円ずつドルが下がった。だから240円が3年後には120円になっちゃった。面白いんだよ、毎日が

ただ、160円ぐらいから下落ペースが速すぎるということで日銀はドル買い介入に変わってたわけ。

PickUp編集部:
売って買って、忙しいですね。
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野村:
120円の時に介入してバンと上がって、そのとき金利が下がってたから87年からバブルが始まるわけ。90年までに160円まで戻すの。 バブルの世の中になってさ、世の中浮かれまくってたわけです。ジュリアナとか知ってる?160円になったらこれはいけないということで今度ドルをまた下げ始めて。ドル売り介入になって1995年また80円割れちゃったんだよね。

バブル経済と状況の変化

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野村:
あと87年に東京銀行を辞めた時は、外資系の銀行も日本市場に入れるようになって、外資がどっと来たわけよ。そうすると日本国内で働く人材がいないわけじゃん。だからもう毎日ヘッドハンターから電話かかってくるわけよ。

PickUp編集部:
もしもし、うちに来ませんかって。
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野村:
そう。そのときの上司が「お前、どこからかかってきたんだ」とかいろいろ聞くわけよ。ちょうどバブルの時だから、電話がかかってくるのはヘッドハンターとゴルフの会員権なんだよ。東京銀行は海外経験者が多いから、結局市場関係の人は1年間で100人以上辞めたんじゃない。バックオフィスの人まで連れて行って5人ぐらいまとめて移るとか多かった。

PickUp編集部:
だいぶ移っちゃいましたね。
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野村:
給料倍にするとか3倍にするとか言われて。結構福利厚生もいいわけよ、日本の銀行より。いいなぁと思ってたら、そんなにいいことは続かないんだよ。バブルの崩壊があったわけじゃん。バブルの崩壊は、為替にはあんまり関係ないんだけど、日本の一般企業とかがダメになって、そうするとさ外資が撤退し始めたのよ。

そのあとはいくつか銀行を変わって、FX市場ができたときに引退して、個人投資家になったわけです。

PickUp編集部:
すごい情報量の経歴を、ありがとうございました。
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野村:
つぎに、為替は需給が大事だという話をしたいんだけど。

PickUp編集部:
ぜひ伺いたいです。

PickUP編集部より

野村さんの学生時代から入行、ニューヨーク時代、プラザ合意までを駆け足でお聞きしました。次回の中編では、為替トレードにおける需給の大事さについて語っていただきます。

野村雅道 氏
FX湘南投資グループ代表 1979年東京大学教養学部を卒業後、東京銀行(現三菱UFJ銀行)入行。82年ニューヨーク支店にて国際投資業務(主に中南米融資)、外貨資金業務に従事。85年プラザ合意時には本店為替資金部でチーフディーラーを務める。 87年米系銀行へ転出。外資系銀行を経て欧州系銀行外国為替部市場部長。外国為替トレーディング業務ヴァイスプレジデントチーフディーラーとして活躍。 財務省、日銀および日銀政策委員会などの金融当局との関係が深く、テレビ・ラジオ・新聞などの国際経済のコメンテイターとして活躍中。為替を中心とした国際経済、日本経済の実践的な捉え方の講演会を全国的に行っている。現在、FX湘南投資グループ代表。