前回~一転、気が変わり銀行に就職~
酒匂隆雄氏のディーラーとしての半生を追いながら、1人のディーラーとして得てきた数々の知見や成長譚を掘り起こす対談企画、第3話です。
銀行からの突然の就職の誘いに嫌がる酒匂さん。重役たちを前にした面接でも「いきません」と言い張り続けましたが、次の日になぜか合格の知らせ。
あらためて断りにいきましたが、逆に「銀行の仕事にもいろいろあるんだ」と諭されます。
酒匂さんも銀行のイメージに偏りがあったことに思い至り、一転、その銀行への就職を決断しました。
邦銀で修行の日々
- PickUp編集部:
- 銀行に就職されてどのようなことをしていたのですか?
- 酒匂:
- 入るときに「まず2年間は支店で、その後は本部にいくことを約束する」という話だったので、横浜の元町の支店で札束を数えたり、ソロバンをやったり。得意先回りもいきましたよ。
- PickUp編集部:
- 酒匂さんが得意先回りなんて想像しにくいですね。
- 酒匂:
- それで、3年目には丸の内の外国部というところに転勤になって外国為替のトレーディングを始めました。
- PickUp編集部:
- そこで外国為替と出会ったのですね。
- 酒匂:
- そう、最初はSさんという人がボスになったんですが、その人に半年間一生懸命教わって、夜も居残って勉強しましたね。
- PickUp編集部:
- 当時(1970年代)の外国為替はどうやって取引していたのですか?
- 酒匂:
- 当時は電子取引とかはまったくない時代なので、ブローカーに電話をして取引していたんです。
で、なにかの確認をするために米国系の銀行ディーラーと直接話をしたら仲良くなったんで、その人のディーリングルームを訪ねたら我々とは全然違うことをやっていたんですね。
- PickUp編集部:
- というと?
- 酒匂:
- 彼らはテレックスを使ってディーリングをしていたんです。
- PickUp編集部:
- テレックスというと、たしかFAXの前身になった通信機ですね。
キーボードで打ち込んで送信すると、相手の端末に印刷されて出てくるという。キーを叩く音がうるさいし、時間もかかって大変だったという話も聞きます。
- 酒匂:
- そのテレックスを打って、海外の銀行と直接やり取りをしていたんです。「いまポンドはいくらだ?」「その値段で買う」というふうに。
そうそう、当時の状況といえばディーラーはディーリングもバックオフィス(取引の精算)もぜんぶ自分でやっていましたね。インチキをやろうと思えばやり放題という状態で(笑)。いや、もちろんやりませんでしたよ。
- PickUp編集部:
- 今では考えられないです。
数字に対する厳しさを教わる
- 酒匂:
- ひどく怒鳴られたこともありました。毎日、金庫から持ち高を記した帳簿を出してくるんですよ。
あるときSさんに「きのうのポジションいくらだ?」と言われたんですが、こっちは答えられない。そこで「ポジションくらい頭に入れとけ!」とすごい怒鳴られましてね。
- PickUp編集部:
- え、ポジションを全部覚えてないといけなかったんですか?
- 酒匂:
- 当時はそうでした。Sさんが言うには「いま東京で大地震が起きたら金庫を開けられないじゃないか。これからロンドンも市場が開くというのにどうするんだ!きのうのポジションくらい頭に入れとけ!!」と。
- PickUp編集部:
- それだけ数字は厳しく管理しないといけないということなんでしょうね。
- 酒匂:
- それで3年経って、海外にテレックスを打ったり電話をしたりしていろいろ話しているうちに、外銀のディーラーと仲良くなって「俺のところに来ないか?」と誘われたんです。
「日本の銀行はキャリアを積んだら外国為替なんてやらない。でも俺たちはディーラーとして入ったらずっとディーラーのままなんだ。お前、ディーリングが好きなんだろう?」と言われて。
- PickUp編集部:
- それでいよいよ外銀に?
- 酒匂:
- いや、その場では断ったのですが、しばらくして上司のSさんが転勤になったんです。
異動先に会いにいったらずっと書類にハンコを押しているんですよ。「俺はもっと上を目指す」と言ってね。
それを見て「自分はやっぱり外国為替をやりたい」と思い始めたんです。
- PickUp編集部:
- 日本の普通の企業はキャリアを積むとマネージャーとして期待されますからね。
- 酒匂:
- だから、ずっとディーリングをやるには外銀に入るのがいいのかなと。
それで親に「いまの銀行を辞めたいんだ」と言ったらすっごい怒られまして。
- PickUp編集部:
- それはそうでしょう。
- 酒匂:
- 「外国の銀行なんて、ちょっと間違ったらすぐクビでしょ!」と言われたけど、いやそれはどこも同じじゃないの?と。
「俺はバイタリティあるし、クビになってもなんとかなるよ」と言って、4年で米国の銀行に移ったんです。日本の銀行から外銀に移った第一号だと思いますよ。
「お前だけが偉いんじゃない」
- PickUp編集部:
- 最初に働き始めた銀行で最も印象に残ったことは何でしょうか?
- 酒匂:
- やっぱりSさんの指導ですね。おかげでどんな人とも対等に話すようになりました。ディーラーの世界は老若男女関係なく立場は同じという意識が強いんです。これは打算ではなくて志として染み付いていますね。
- PickUp編集部:
- Sさんの言葉で印象に残ったものは何ですか?
- 酒匂:
- 「お前だけが偉いんじゃない」という言葉ですね。
トレーダーをやっていると自分が偉くなったような気がするけど、そうじゃない。自分が偉いんじゃなくて、組織や周りの人が助けてくれるとからやっていけるんだ、と。
- PickUp編集部:
- たしかに、熱中するとついつい周りの支えを意識しなくなることはあるかもしれないですね。
- 酒匂:
- 情報がその最たるもので、当時はロイターも何もない。前日の出来事が載った新聞しかない。
そういう中で新しい情報を得ようとするといろんな人と仲良くなるしかないんですよ。
- PickUp編集部:
- 人を大事にしないと何もできない時代だったと。
- 酒匂:
- だから私は誰に対しても話し方を変えないし、あまり他人の悪口も言ったことがない。
他にも外銀をいくつも移ったけれどSさんのような人はいなかったですね。ちょっと眠そうにしてたら怒鳴られたり立たされたりして、仕事に対してはものすごく厳しかったですけどね。
- (続く)
Pickup編集部より
ついに日本の銀行から外銀へ移ることを決意。銀行の本部で手堅いポジションに就く可能性も高かったのですが、酒匂さんは人生をかけた仕事としてディーリングを選びました。
今風にいうならば、就社ではなくて文字通り仕事本位の就職をしたということになるでしょうか。当時はまだ20歳代半ばでしたが、目的意識の強さと実行力がにじみ出ています。
日本の銀行で学んだことの最たるものはディーリングの技術というよりも、数字を管理することの厳しさや人間に対する尊敬や縁を大事にするといった基本的な哲学を身に着けたことが大きかったようです。
取引も電話が主体の当時、人と人をつなぐ信頼感がなによりも大切にされていたということでしょう。
酒匂隆雄 氏
酒匂・エフエックス・アドバイザリー代表 1970年に北海道大学を卒業後、国内外の主要銀行で敏腕ディーラーとして外国為替業務に従事。その後1992年、スイス・ユニオン銀行東京支店にファースト・バイス・プレジデントとして入行。さらに1998年には、スイス銀行との合併に伴いUBS銀行となった同行の外国為替部長、東京支店長に就任。 その一方で2000年には日経アナリストランキング・為替部門にて第1位を受賞するなど、コメンテーターとしても高い評価を得ている。