
トルコの政治討論番組を見ていると、新憲法制定の話題が繰り返し登場します。しかし番組を見終わった後、近所の人と話すと、まるで別世界の話のように受け止められています。「新憲法より物価や仕事の方が気になる」という声をよく耳にします。政治家たちが「歴史的な転換点」と声高に語る新憲法制定の議論が、市民の日常からいかにかけ離れているか。これがいまのトルコの現実の一断面です。
「この任期中に必ず実現する」
レジェップ・タイイップ・エルドアン大統領は 2025 年 5 月、新憲法制定に向けて 10 人の法律家を作業チームに任命したことを明らかにしました。以降、エルドアン大統領はこの問題に繰り返し言及しており、外遊先からの帰国便で記者団に「新憲法を常に議題に上げ続け、国民に約束したこの公約を必ず果たす」と述べました。さらに Diken 紙によると、「民主的な政治体制と時代に合った法整備を実現するうえで、新憲法の制定はその全ての基盤となる」とも語っています。
Cumhuriyet 紙の報道によると、議長を務めるジェヴデト・ユルマズ副大統領のもとに設置された 11 人の委員会は約 6 か月の作業を経て最終段階に達しており、技術的な作業はほぼ完了しているとされています。ただし範囲と日程に関する政治的決定はまだ下されておらず、エルドアン大統領との協議を経て工程表が固まる見通しです。
透けて見える「続投シナリオ」
注目されるのは、新憲法の中身よりもその政治的な意図です。現行憲法第 101 条は「1 人の人物は最大 2 回、大統領に選出されることができる」と定めており、2028 年 5 月に現在の任期を終えるエルドアン大統領の 3 選出馬は原則として認められていません。しかし新憲法が制定されれば在職期間をリセットできるという見方が根強く、Cumhuriyet 紙はこれを「続投への布石」と繰り返し報じています。
T24 紙が伝えた委員会内部の情報では、新憲法の主要課題として大統領府型政府システムの改定が挙げられており、大統領の再選資格に関する規定の変更も検討されているとされています。また新憲法はどれだけの賛成票で可決されても国民投票に付される計画とされており、これはエルドアン大統領が「民意の後ろ盾」を得るための戦略とも読み取れます。
分裂する野党、静かに進む準備
野党側の状況も複雑です。共和人民党(CHP)のオゼル前党首は 2026 年 7 月、91 人の国会議員とともに離党し、「イェニ党(新党)」を設立しました。公正発展党(AKP)に次ぐ議席数を持つ野党第一党となったイェニ党と CHP は現在も対立を続けており、こうした野党の分裂と混乱が、与党の新憲法推進にとって有利な状況を生み出しています。Haber Hürriyeti 紙は「新憲法の準備は静かに進んでいる一方で、野党は内部問題を話し合っている」と指摘しており、複数のメディアも同様の論調を示しています。
一方で与党は憲法改定にあたって、CHP 以外の勢力の取り込みも模索しています。Haber Hürriyeti 紙によると、AKP 内部では「クルド系政党の人民平等民主党(DEM)など異なる政治勢力の支持が必要になる」という見方が広がっており、そのため新憲法には「平等な市民権」「民主的権利」「地方自治体への新たな規定」など、DEM の関心と重なるテーマも盛り込まれているとされています。こうした動きは「数合わせの政治」として批判的に見る向きもありますが、与党としては幅広い合意を演出することで国民投票での可決を確実にしたい思惑があると見られています。
「変わっても生活は変わらない」という市民の声
市民の関心はどうでしょうか。Haber Hürriyeti 紙は「新憲法の議論は市民の間ではほとんど話題になっていない」と指摘しており、複数のメディアも同様の論調を示しています。街を歩いても、憲法改正よりも物価高や失業の話の方がはるかに頻繁に聞かれます。隣人の 60 代の男性は「憲法が変わっても、私たちの生活は変わらない。問題は経済だ」と話していました。また 30 代の会社員は「エルドアンがまた出るために変えようとしているのでは、という気はする。でも止められる気もしない」と淡々と話していました。こうした市民の諦めにも似た感覚は、議論の熱量と実感の間の落差をよく表しています。
「政治的決断」という最後の関門
新憲法制定が実現するかどうかは、いくつかの重要な関門が待っています。エルドアン大統領自身との最終的な協議、議会での賛成票の確保、国民投票での承認、そして何より野党第一党との合意なき場合の正当性の問題です。新憲法の議会可決には 600 議席中 360 票(5 分の 3)以上が必要で、国民投票なしの単独可決には 400 票(3 分の 2)以上が求められます。
現在 AKP と民主主義者行動党(MHP)の連立与党が持つ議席はこの水準に届いておらず、DEM やイェニ党の一部取り込みなしには実現しない計算です。Cumhuriyet 紙は「技術的な作業は完了したが、政治的な決断はまだ下されていない」と伝えており、年内の具体的な動きについては慎重な見方を示しています。
2028 年の選挙を見据えたとき、エルドアン大統領にとって新憲法は単なる制度改革ではなく、政権継続のための「最後の切り札」かもしれません。議席数の壁、野党の分裂、市民の無関心、そして DEM との取引。この複雑な政治の方程式を解き切れるかどうかが、トルコの次の時代を左右することになりそうです。
トルコ在住。トルコの大学および国営機関での勤務経験を持つ。翻訳・通訳や机上調査(リサーチ)にも従事しながら、 現地メディアの情報や生活者目線をもとにトルコの政治・社会情勢を伝えている。
