野村雅道のID為替 (レポート)|FXブログ|外為どっとコム

通貨危機をまとめてみました

「通貨危機をまとめてみました」

*だいたい危機が底ですね ニクソンショックは別として
*危機の対処方法も同じでしょう

1. 「ドル通貨危機=ニクソンショック」1971年

2.「ポンド通貨危機」1992年

原因第二次世界大戦前ポンドは世界の基軸通貨。戦後その地位は失う。「ゆりかごから墓場まで」をスローガンに福祉国家
* 1960年代以降は「イギリス病」
* 1980年代にサッチャー首相が経済再建のために急進的な構造改革(民営化・行政改革・規制緩和)。大量の失業者。地方経済不振。ロンドンを中心に金融産業は成長。経常収支は、原油輸出国であったことから原油高騰時は黒字であったが、基本的に赤字基調。
*EMS(欧州通貨制度)とERM(欧州為替相場メカニズム)に参加
*1990年10月に東西ドイツが統一されて以来、欧州の金利は高目に推移。連動して、ポンドは次第に過大評価
*ソロスは、「相場は必ず間違っている」が持論。実勢に合わないポンドを売る
展開
1992年9月ポンドへの売り浴びせで変動制限ライン(±2.25%)を超えた。9月16日、イングランド銀行が公定歩合を10%から12%へ引き上げ、同日一度引き上げ15%へ。事実上のERM脱退となったこの日は、ブラックウェンズデー。9月17日、イギリスポンドは正式にERMを脱退し、変動相場制へ移行。ポンドはその後も1995年まで減価を続けた。
*ジョージ・ソロス率いるファンドは、10億から20億ドル程度の利益


3.「アジア危機」1997年

アジア通貨危機とは1997年7月よりタイを中心に始まった、アジア各国の急激な通貨下落)現象である。この現象は東アジア、東南アジアの各国経済に大きな悪影響。
原因
*アジアのほとんどの国はドルと自国通貨の為替レートを固定するドルペッグ制。ドル安で相場は安定。固定相場制の中で金利を高めに誘導して利ざやを求める外国資本の流入を促し、資本を蓄積、輸出需要で経済成長するという成長システムを採用。
*1995年以降アメリカの長期景気回復による経常収支赤字下の経済政策として「強いドル政策」が採用され、ドルが高めに推移。これに連動して、アジア各国の通貨が上昇(増価)した。これに伴いアジア諸国の輸出は伸び悩む。
*ヘッジファンドはアジア諸国の経済状況と通貨の評価にズレが生じ、通貨が過大評価。過大評価された通貨に空売りを仕掛け、安くなったところで買い戻す。


「タイ」
1990年代のタイ経済はそれまで年間平均経済成長率9%。1996年に入るとその成長も伸び悩み。貿易収支が赤字に転じた。1997年5月14日、15日にヘッジファンドがバーツを売り浴びせる。タイ中央銀行は通貨引き下げを阻止するため外貨準備を切り崩して買い支えようとしたが底をつく。7月2日に変動相場制を導入すると、それまでの24.5B/$だった為替レートが一気に29B/$台にまで下落。IMFは同年8月11日、20日の2回に分けて172億ドルの救済を行った。1998年1月には、最低の56B/$台を記録する。タイ中央銀行が自国通貨を買い支え。
タイ証券取引所(SET)の時価総額指数であるSET指数は357.13(1997年の最高値は858.97、史上最高値は1994年の1753.73)まで下落し、翌年には危機後最安値である207.31(史上最高値の11.8%)を記録。
対外資金によってファイナンスされていた不動産バブルの崩壊に加え、IMFが融資条件として課した政府支出の削減と利子率の引き上げが、景気後退期における総需要の更なる減少を招く。好景気のタイ経済は崩壊し、タイでは企業の倒産・リストラが相次ぎ失業者が増加。タイの通貨の変動を受けてバーツ経済圏にある、ミャンマー、ベトナム、ラオス、カンボジアにも打撃。

「フィリピン」
1997年のヘッジファンドによるバーツの空売り開始によりフィリピン政府は同年5月にフィリピン中央銀行の公定歩合を1.25%引き上げた。同年の6月19日には更に2ポイント引き上げ。タイ政府が同年7月2日にバーツに変動相場制を導入すると逆に、通貨ペソを守るため翌日物金利(overnight rate)を15%から24%まで上げた。

「香港」
香港ドルをアメリカドルに固定していた(7.8HK$/$)。HK$も他のアジア各国と同じく1997年10月に打撃。しかし、香港金融管理局は10億ドル以上を投入し、変動相場制への移行を回避。香港の株式市場は不安定になり、同年10月20日から23日までの間にハンセン指数は23%まで下がった。8月までに翌日物金利は8%から23%に。
香港は単なるドルペッグ制ではなく、カレンシーボード制といい、自国の金融政策を放棄し、香港ドル発行の際には米ドルの裏づけが必要であったためで、香港ドルの大量の売りがあると、自動的に香港ドルの流通量が少なくなり、翌日物金利が上昇し、金利上昇により、売りが耐えられなくなる。

「韓国」
韓国はマクロ経済のファンダメンタルズは良好だったが、金融部門では不良債権増加。
ムーディーズは1997年7月、韓国の格付けをA1からA3まで下げ、11月にはさらにBaa2にまでに下げる。ソウル証券取引は同年11月7日に4%も落ち込み、翌日には一日の株価変動としては、史上最大の7%の下落。この後IMFがしっかりとした再建を行うかどうかの不安感も災いし、同年同月の24日には更に7.2%落ち込んだ。そして、同年末に韓国はデフォルト寸前の状況にまで追い込まれた。これによりIMFが韓国の経済に介入し、現代グループなどに対して財閥解体が行われた。

「 マレーシア」
マレーシアは1997年までにGDPの6%にも及ぶ膨大な借金を抱えていた。同年7月にはマレーシアの通貨リンギットがヘッジファンドによる空売りされ同年8月17日、管理された変動相場制(事実上の固定相場制)から変動相場制へ移行した。
1997年始めに1ドル=2.5リンギット程度だったレートが年末には1ドル=5リンギット程度と50%減価。S&Pが国債の格付けを下げる。クアラルンプール証券取引所は1993年以来の最大の856ポイントもの落ち込みを記録した。同年10月2日には再びリンギットが下落し、マハティール首相は資産のコントロールを発表した。

「インドネシア」
金融事情も良好で、200億ドル以上の外貨準備があり、更に90億ドル以上の貿易黒字を加え、インドネシアはタイと違い緩やかなインフレーションを見せていたが1997年7月にタイがバーツを変動相場制へ移行したとき、インドネシアの通貨局はインドネシア通貨、ルピアの(tradingband)を8%から12%に固定するとルピアは危機に見舞われた。同年8月にはルピアは変動相場制へ移行するが、これがルピアの値下がりを早めた。ここでIMFは230億ドルの支援を約束するが、法人負債がかさんでいることに、ルピアの激しい空売りなどに不安感があり下がり続け、同年9月にはジャカルタ証券取引所が史上最低を記録した。
通貨危機は国内にインフレーションを起こし、食品価格の上昇とそれに対する暴動を招いた。32年に渡り独裁者としてインドネシアを支配していたスハルト大統領はインドネシア銀行の最高責任者を解任したが、収まらず、スハルトは辞職し、ハビビが大統領に就いた。

「中国」
中国では外国企業の進出が多く、金融システムにも問題があったにもかかわらず、国内全体の預金がほとんど国内口座にあったうえ厳しい規制があったため、あまり影響を受けなかった。中国がいつ人民元の切り下げを行うかに多大な関心が集まっていたが、切下げは行われなかった。中国が切り下げを行えば通貨危機は更に拡大していた可能性もある。

「日本」
日本はバブル崩壊後、ようやく内需主導の回復途上にあった日本経済だが、自民党橋本政権下における緊縮財政にアジア通貨危機が追い打ちをかけ1998年には実質マイナス成長に転じた。長く続いたデフレの要因の一つとしてアジア金融危機を一因としてあげられる。

「日本の支援」
日本は、2年間に渡り国際機関やG7各国と協調し当初の危機対応において、二国間支援の主導的な役割を果たした。一時的な資金不足を補填する流動性支援のみならずODAを含む日本の独自の政策的金融手段を総動員し長期の安定的な資金を供与してアジア各国の実体経済の回復と安定化に対して取り組む
IMF・世銀年次総会において発表された新宮澤構想は、アジア諸国の実体経済回復のための円借款・輸銀融資等による中長期の資金支援を含む合計300億ドル規模の資金支援スキームを用意。

4.「ロシア通貨危機」1998年

ロシア財政危機とは、ロシアの財政が悪化したところへアジア通貨危機の余波も受けて発生した債務不履行並びに一連の経済危機。1998年8月17日にキリエンコ政府並びにロシア中央銀行の行った対外債務の90日間支払停止と、これに起因するルーブル下落、キャピタル・フライトなどの経済的危機を指す。

「当時のロシア経済の状況」
ロシアの貿易は輸出の80%を天然資源(石油、天然ガス、金属、木材)に依存。これは世界経済の状況に影響されやすく世界的デフレで当時物価が下落しつつあった状況下で財政は悪化。原油価格の下落に伴い税収が減少しロシア政府の財政が極度に悪化。経済状況の悪化を反映してルーブルも下落し、脱税が蔓延して政府の収入が減り賃金、年金、各種サービスへの支払いなどに充てる財源はなくこれらの支払いを一時停止したりルーブルではなく現物支給を行う等でしのいでいた。
「経過」
財政が逼迫していたところに、アジア通貨危機の余波を受けて世界の景気が後退し、主要輸出産品の価格が下がった事が経済の悪化に輪をかけた。同じくアジア通貨危機を経て投資家の安全指向が高まり、金利は高いがリスクも高いロシア関連株よりも、安全な米国債等への資金の移動。ロシアが一時的な混乱から直ぐに回復すると見たファンドの予想を裏切り、多大な損失を被ったファンドが倒産の危機に陥り、これも金融危機を拡大。
「政変」
賃金支払いを受けられず困窮した炭鉱労働者は、1997年夏にシベリア鉄道を封鎖し、賃上げ要求に加えてエリツィン大統領らの辞任も要求。これをうけて、エリツィン大統領は1998年3月23日に、チェルノムイルジン首相と、その閣僚を突然罷免し、政治危機が高まった。エリツィン大統領は35歳の技術官僚であるセルゲイ・キリエンコを首相代行に指名。
「超高金利政策」
キリエンコはルーブルの下落を防ぐべく為替レート維持の姿勢を見せる。資本の流出を止め、投資家を引きつけて国債を消化させるために、150%の超高金利政策。しかしアジア通貨危機を経験した投資家の指向は「質への逃避」を起こしており、原油価格の低迷からロシア財政改善の兆しも見えず、資本の流出は止められず。この状況で1998年中頃には、ルーブルを買い支える資金が無くなり、為替レートを維持する資金をIMFから仰ぐ。
「IMF融資」
ロシアの財政危機は西側諸国にとっても不安。長期的に資金を注入する事は事態の解決にならないが、IMFは援助なしではエリツィン政権が保たないものとして7月13日に226億ドルの緊急支援を承認。
「 更なる資本流出」
この救済処置でも事態は好転せず。IMFの援助があったが資本流出は続く。ルーブルの下落が始まり、財政危機に陥った。負債の利子を返す為に新たに借金をせざるを得ず、また、危機的状況にあるロシアに資金を貸し付けるにあたって貸し手は更に高い金利を要求
「デフォルト」
8月17日に、キリエンコ政府とロシア中央銀行は対外債務を90日間支払い停止すると発表。
「影響」
この経済混乱は各方面へ波及、ヘッジファンドに影響ノーベル賞受賞者が設立に関与したLTCMが破綻に瀕して銀行からの特別融資を受けた。
「ファンド倒産」
アメリカ合衆国における1000億ドル規模の巨大ヘッジファンドであったLTCMは市場中立型ファンドと呼ばれ、市況が一時的に変動しても、いずれ元の水準に戻るという性質を利用する。ロシア危機に際して、一時的にロシア関連の株が下落しても、いずれは元に戻るとしてポジションを取った。しかし、アジア通貨危機とロシア財政危機を経験した投資家は、パニックにより安全な米国債等を指向して、ロシア市場に回帰する事がなかった。また、LTCMがポジションを取っていた中南米の株等もリスクが大きいとして下落し損失が拡大し、結局破綻に追い込まれた。
それまで、年利40%前後の好成績を挙げていたことから、他のファンドも多くが同じ手法をとり、やはり同様に窮地に陥った。また市場中立型ファンドは、個々の取引では利益が微々たるもので、それを補う為にレバレッジを効かせ、また、大量の注文を行う事で利益を膨らませていた。しかしそれが反対方向に動き、かつ通常よりも長期間にわたり大幅な変動を見せたことで、損失は広がった。

5.「アルゼンチン通貨危機」2002年

 アルゼンチンは牛肉の輸出で経済発展、第1次世界大戦で中立を維持し、1930年代には国民一人当たりの収入がフランスと並んで高い、豊かな国の一つとなった。
 繁栄は長く続かず。第2次大戦後、ペロン大統領が労働者保護、社会保障の充実など、国家社会主義的な政策をとったが、短期的な人気取り政策に終わって失敗し、クーデターで軍事政権になった。1950-70年代は、軍政とペロン派の政治が交互に続く中で経済は上向かず、軍事政権に反対する左派と右派とがテロを行う。
 1980年に入ると、軍事政権が国民感情の高揚を狙ってイギリスとの係争地フォークランド諸島を軍事占領するが、イギリスの反撃に破れて敗戦し、国情はますます悪化した。89年には年率5000%という超インフレに襲わる。
1990年代に行き詰まりを打開できたのは「冷戦終結」という時代の転換に乗る。1989年に就任したメネム大統領は、関税を下げて貿易を自由化し、国営企業を民営化し、投資制限を解除して海外からの資金流入を増やし、政府による経済規制を減らして市場原則に任せるという「経済自由化」を行った。
 これは冷戦の勝者となったアメリカが「グローバル・スタンダード」として世界に広げていった経済体制で、アルゼンチンはいち早くその体制に転換し、1990年代前半には年率8%近い高度経済成長。
固定相場
 ペソの為替相場を1ペソ=1米ドルで固定する政策。為替相場を固定することによって、海外の投資家、特にアメリカの投資家が、為替変動のリスクを気にせず、米国内の企業などに投資するのと同じように、安心してアルゼンチンに投資。
 固定相場が輸出の足かせ
 アジア通貨危機は、その後ロシアに飛び火した後、1999年に南米のブラジルを襲った。ブラジルも、1ドル=1レアル前後の為替を維持していたが、為替を固定する方法がペッグ方式だったので、投機筋の攻撃を受け、レアルは大幅な切り下げに追い込まれた。
 ブラジルのレアルが大幅に切り下げられたため、アルゼンチン製品の方が割高。通貨切り下げの後、ブラジル経済は立ち直り始めたが、アルゼンチンは逆に不況になった。
 アルゼンチンの不況は1997年からしだいにひどくなり、2001年には経済成長率はマイナス11%。失業率も20%に達し、政府は税収の落ち込みから、公務員の給与や年金を支払えなくなり、4000万人近い国民の4割にあたる1400万人が貧困層になり、今日明日の食べ物にも困る人々が国民の1割以上、500万人もいる状態になった。

  IMFは予定されていた27億ドルの融資を実施する条件として、政府予算の収入と支出を均衡させることを求めた。アルゼンチンは不況で税収が減っており、ひどく楽観的に見積もっても、2002年度は支出を前年度より20%減らさないと均衡予算にならない。公務員給与や公的年金の支払いが滞っている中で、歳出削減は不可能。
1999年に起きたブラジルのレアル切り下げでペソが相対的に高くなり輸出競争力を喪失、国際収支は悪化。結果的に通貨危機より完全に暗転、2001年には対外債務の返済不履行宣言(デフォルト)を発する事態に陥り、経済が破綻。
(その後)
メルコスールに加盟。南米諸国との経済交流の活発化による諸外国からの投資の増大で経済が復活。IMFの干渉を排除するため100億ドル近い債務を完済。2000年末の経済破綻直後の失業率24%を、2006年5月までに11.4%にまでに改善した。

FX湘南投資グループ代表
野村 雅道(のむら・まさみち)氏

1979年東京大学教養学部を卒業後、東京銀行(現三菱UFJ銀行)入行、82年ニューヨーク支店にて国際投資業務(主に中南米融資)、外貨資金業務に従事。85年プラザ合意時には本店為替資金部でチーフディーラーを務める。

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