STEP1 コラム.僕がトレーダーになった時

酒匂塾長が為替の世界に入った頃を振り返り、ディーラーとしての第一歩をスタートするまでを語って頂きました。

1970年に大学を卒業し、ある地方銀行の一支店に配属になった。
実はこの銀行とは入行時に、「将来、国際部門で働く。」との紳士協定があり、「支店で銀行の一般業務研修を終えたら、数年のうちに本部に配属する。」との約束を貰っていた。
その支店で2年間、得意先係、窓口、そして国内為替(FXには全く関係無く、まあただの送金係。)の仕事を終えた3年目に、丸の内にあった外国部・為替課に転属になった。

これがFXに携わりだした第一歩である。

「国際部門」と、「外国部・為替課」との間にどの様な関連があるかは分からなかったが、入行3年目に異例の抜擢で(と言っても、先程書いた様に、その銀行とは約束があったが)支店から本部に転勤になり、嬉しかった。

その銀行は、チーフ・ディーラーのSさんが、卓越したディーリング能力を発揮して、東京外為市場でもその取引額は大手の都市銀行を凌ぐほどであり、しかも大きな利益を上げていた。
後から聞いた話によると、筆者が為替ディーリングに携わる外国部・為替課に配属になることが決まったのは、多少英語が話せたことと、学生時代に鍛えた麻雀の腕前を見込まれたと言うことであった。
要するに、「あいつは英語も話せて、麻雀も巧いから、為替ディーラーに向いているに違いない。」と人事部が思ったのだろう。
何が身を助けるか分からないものだ。

そして、Sさんの下で、為替の修行が始まった。Sさんは厳しかった。

ある日、朝一番、まだ金庫から持ち高(前日に締めた各通貨のポジション)の諸表を出す前に、「おい酒匂、ポンドとドイツ・マルクの持ち高はなんぼだったっけ?」と訊かれた。
咄嗟に答えられないでいると、「馬鹿野郎!為替ディーラーたるもの、自分の銀行の各通貨のポジションくらい、空で言えるくらい真面目にやらなきゃあ、務まらないぞ。関東大震災が起きたらどうする?金庫が埋まって、持ち高が分からなかったら、どうする?東京市場は閉まっていたって、ロンドンやフランクフルト市場は開くだろうに。我々が今、どんなリスクを背負って仕事をしているかを常に考えて仕事しろ!」と偉い剣幕で怒られた。「俺が作ったポジションでもないし、何も関東大震災の話をしなくったって…。」と思ったが、正にSさんが仰る通りであった。(と、後から為替のポジションのリスク管理の重要さを理解した。)

最初の頃はつまらない間違いを起こして、よく怒られたが、常に「二度と同じ間違いはしないようにしよう。」と務めた。お陰で、2年間居たその為替課では、最後の方では殆ど怒られなくなった。恐ろしい先輩が仰るリスクの怖さについて、段々理解が出来出したのである。

Sさんの威光のお陰で、筆者も少しは東京市場で知られる様になり、1974年(銀行に入って4年が経ち、為替を始めて2年が経っていた。)にある米系銀行から、「給料を5倍払うからウチに来ないか?」と誘われた。所謂、ヘッド・ハンテイングである。
迷った。
別に給料に目が眩んだ訳ではなかったが、そろそろ自分でやる為替ディーリングが面白くなってきた頃で、このまま日本の地方銀行に居て、「行儀の宜しい一銀行員」として留まるか、或いは外資系銀行に飛び出して「自分の腕だけで食っていくプロの為替ディーラー」となるか、迷ったのである。
一緒に住んでいた両親は転職に猛反対した。
「このままだったら、何不自由無く暮らせるんだろう?何を好き好んで、何時首になるかも知れない様な職業に就くの?」と特に心配症の母親は反対した。
「大丈夫だよ、首になったって、俺は何をやっても生きていけるよ。」と言い放ち、外資銀行に転出した邦銀ディーラー第一号として、本当のプロの為替ディーラーの一歩が始まったのである。